2012/03/15

議論ができない日本人へ。

もうずうっと前からここで主張し続けているが、
色々な手段で声高に主張している人間は大体議論のできない
非常に狭窄した視野の人間であることが多い。

自分を肯定する人物とだけ懇意にし、
自分へ反対の意見、あるいは主張の根拠を問いかけるものには
「そんな事をいうやつは○○だ」
「○○する資格などない」
などと侮蔑を含んだレッテル張りをして議論をしない。
相手が呆れて議論を断念すれば自分が勝利したと勘違いする。
そもそも議論に勝負などという概念を持ち込んでいる時点で
目的も手段も意味を成していないことに気づくべきである。

既にあなたは差別のない、未来に希望あふれる社会を実現するに足りる人物とは
かけ離れた存在であることをいい加減に気づくべきである。
あなたがやっていることは
あなた一人(一味) が正義である世界を実現しようとしているだけだ。
呆れるほどに独裁者ではないか。
この世に独裁者が平和な世界を築けていない理由を考えるべきだ。

あなた一人の主張が通れば世の中が平和になるのか?
とんだ思い上がりである。
むしろ差別はあなたの周りから始まっている。
子供はそんなあなたを一番近くで見ている。

客観的過ぎる視野は行動力を弱めるので、
ある程度の思い切りが必要なのは確かだ。
しかし、
主張に一定の客観性を持たせることができないのであれば、
反論に侮蔑とレッテル張りでしか返せないようであれば、
いい加減な主張は控えるべきである。

それに、主張とは時間と共に少しずつ姿を変えてもよいものだ。
反対も含めたあらゆる意見を取り入れることで、以前の主張と変わっても、
それは決して恥ずかしいことではない。
当然、周囲にはそれを明瞭に説明する必要はあるが。



また、周りの人間も問題である。
こういった人物の声は概して大きいものである。
強い口調であるだけで内容がなくとも、
何となく信じてしまうことは愚かなことである。
大衆が信じてしまえば間違いも正しいことになってしまう。
愚かなリーダーシップに惑わされないよう、
主張は常に根拠を明確にするよう求めてゆくのが重要である。
黙って従うのは決してリーダーへ良い影響は与えない。


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