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2012/07/25


最近のいじめ自殺に関する反応とか、
加害者の家族や本人のこれまでの逸脱した行動なんかを
鬼の首をとったように晒しているのを見かけるけど、犯罪者のやったことよりも
「クズをクズと呼んで何が悪い」
という発想に平気でいられる人々の方がオレは嫌い。
それ、いじめそのものだと思うんだけどね。

確かに犯罪を犯した人物の行動が時折理解に苦しんだり
醜い側面をさらけ出していることがあるのは理解できる。
だが、それに対する嫌悪だけを共有し、寄って集ってぶつけあってゆくのは
単純にいじめる側といじめられる側が逆転した構図に過ぎない。
このような人道にもとる行動をする人はいじめをなくそうとする活動に
賛同するべきではない。いじめを自ら率先しているのだから。

これが起こる理由は単純にネットが普及しているためというわけではなく、
やはり生活に余裕がない人々が増えているためであろう。
とにかくうまくゆかない、行きどころのない怒りを発散したい。
どうにもならない社会の閉塞感を打破したいという攻撃的な気持ちへの
対応だろう。だがそれは共有されるべき感情ではない。
簡単に見下せる都合の良い他人を踏み台にして自分たちだけが満足できるような世界を自分が望んでいる、そのような醜悪な傲慢さが自分にあることを自覚すべきだ。
皆がそう思っているならそれは間違っていないとでも?
赤信号も大勢で渡れば悪くないとでも?

そのような人物は少なくともオレにはクズと呼ぶにふさわしいように見える。


本当にいじめをなくしたいのなら被害者加害者共に持つ苦境をどうにかすることである。被害者根性を集めて仕返しすることではない。その区別ができないようならいじめについてコメントをするのは自分の醜さをさらけ出す良い機会となるだろう。

遺族の気持ちはどうなるのだ、という反論があると思う。
なるほど、理不尽に死に追い込まれた人物の家族の怨嗟は相手方の死を望むことが多い。
しかし、だから、何だというのか。
それは遺族ではない人間には関係のないことだろう。
まさか遺族の言を代弁しているとでもいうのだろうか。
笑止千万である。

加害者・被害者の処遇は法律に基づいて決定される。
遺族の肩代わりしたいのであればしかるべき場所にて声を大にしたら良いのではないか。
あるいは遺族の悲しみをやわらげるため、直接会って悲しみの言葉に耳を傾けにゆくべきだ。
それをしないのであれば、所詮は自己満足でしかない。
そんな人間の言葉が現実に反映される事はないのだから。
無責任に言いたいことを言うことと違いはない。
それが道端に痰を吐くようにネット上に垂れ流されているのだ。

今一度、自分の程度というやつを顧みることをお薦めしたい。


ずっと以前からオレが主張している、
「大体数の普通の人間こそ裁かれるべきことがある」
という主張は今も変わっていない。

「大勢」という流れの中でたゆたい、自ら考えることを放棄するようでは、
他人に伺うことでしか答えを見つけ出せないようでは、

結局無自覚にたくさんの人間を傷つけることになるだろう。
犯罪者のそれよりも、もっと多く、深く。


私はそういうやつが大嫌いである。


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